社会的な手帳

A sociopolitical memorandum

社会の役割分担

 人は必ずしもなりたいものになれるわけではない。否、なれるとしてもそれが適性であるかどうかというのは、どうしても今日まで辿ってきた道に多くを規定されてしまう。私は昔、政治家になることを夢見ていたが、官僚や秘書のように卓越した事務処理能力や名望家のごとく知らず知らず多くの人を寄せ集める生来のカリスマ性を持つことのなかった自分には適性が無いのだろうと気付いた。もちろん適性がなくても努力次第でなれるかもしれないが、果たして適性にそぐわないことに一生を費やして、それが幸福なのかと問われると疑問に思ってしまう自分がそこにいた。疑問に思わないなら悪く無いのかもしれないが、大凡一度の人生、どうせなら天職にありつきたいものだ。

 訓練次第で事務処理能力も人望も改善が見込まれると述べる人も少なからず存在するし、実際に幾ばくか大人になってからでも身につけられるスキルはあるだろう。しかし他人と頻繁にトラブルを起こしたり、昔から注意散漫な日々を過ごしてきた自分の場合、そのスキルを恒常的に上昇できるとは信じられず、すぐに他人より低い天井に突き当たる未来を思い描いでしまう。事務や客引きではなく、何らかの専門性を活かせる形で政治に関わらず社会に貢献しつつ自分を満たせる道を間も無く見つけなければならない。

Mcfarland「神々のラッシュアワー」(1969)読書ノート

 

 現代日本を総合的に理解する上で日本の新興宗教の活動、つまり日本に於ける「社会宗教現象」を考慮することは必要不可欠であると「神々のラッシュアワー」(1969, 原著1967)の著者であるマックファーランドは主張する。マクファーランドは当時テキサス州のダラスにある南メソジスト大学(SMU)の助教授として宗教史を教えていたことが解説者によって記されているが、その後の情報については不明である。というのも解説者共々インターネット上に記録が殆ど残っていない。

 この本を彼が計画していた時点では日本の新興宗教に関する英語の本は出版されていなかったが、出版されるときには既にそれに関する研究書が世に出回っており、先に出版されたOffnerとvan StraelenによるModern Japanese Religions(1963)及びThomsenによるThe New Religions of Japan(1963)について言及している。しかし教義と治療に着目したOffnerや、その信仰と教義について掘り下げたThomsenとは異なり、本書では日本の新興宗教に関する「歴史的文化的起源」や「これ等の宗教運動の現実並びに潜在的な社会機能を認識すること」を目的としているため内容は重複しないとしている。 

重なり合う日本

 日本を考える上で避けて通れないのが、その二重性であるとマクファーランドは指摘する。古い/新しい日本、歴史的/現代的日本、伝統的/近代的日本と言ったように、明治維新ないし終戦から始まる日本とそれ以前から続く日本という「二つの日本」の共存状態が今の日本の複雑さを生み出している。マクファーランドは、日本を研究する者が少しでも軽率であったり忍耐に欠けるところがあれば、たちまちその二重性を見失ってしまい、一方の日本が「本当の日本」であると誤認してしまうことを警告する。伝統的な日本に認識を傾けてしまうと近代の日本は「本質的に外国の腐敗した影響を受けた嘆かわしい姿」に見えてしまい、逆に近代に日本に付いてしまうと伝統的な日本は「時代遅れで不名誉極まる封建主義と感傷主義の痕跡」になってしまう。現代の日本を正確に書き残すことを試みるなら日本を「静止した存在としてではなく、動的なプロセスとして把握する必要があるという認識」を持つことが重要であると彼は言う。

現代の大衆の宗教運動

 マクファーランドは自身の研究分野を「現代の大衆の宗教運動」と規定する。これには彼自身の熟慮が反映されており、たとえば「現代の」という部分に注目すると、そこには過去と比べた新しさを意味する「現代」、そして歴史的な関連を持った対の一つとしての「現代」を重ねあわせている。宗教運動の「現代」における二重性について彼は「現代の産物」であることと「過去に起源を持つものが現代において発現した」ことが同時に存在してることを指摘する。また「大衆の」という言葉に対しては一般人という意味でこれを用いていることが説明されており、彼は具体的に農民、労働者、主婦、店員、中小企業経営者といった中流以上には扱われない人々が対象とされることを意図しており、実際に当時新興宗教に入っていた信者の大半は彼らのような人々であったと述べている。また「大衆の」という言葉にもふたつ目の意味を彼は含意しており、新興宗教の運動が伝統的な日本の大衆宗教と同じであること、つまり新興宗教もまた「日本的伝統の一民間信仰」に過ぎないという。最後に「宗教運動」という単語を選んだ理由としては信者たちが自身の所属する団体を宗教団体ではなく「在家組織」や「出版機関」「相互信頼組合」と主張する可能性があり「宗教」ではなく「宗教運動」としたほうが今回の対象を広く包括できると考えていたことが記されている。

社会宗教的運動としての新興宗教

 新興宗教は大衆のための避難所、そして時には社会抗議の手段を与えるために機能する。

他文化と類似している点

彼は新興宗教は独特であるものの、それに似たようなものが日本以外にも存在しており、具体的な名称としてはアメリカ・インディアンのゴーストダンス宗教や、メラネシアのカルゴ礼拝のような「原始的社会の「メシヤ」崇拝や「至福一千年」説と比較について検討している旨が記されている。特に以下の5つの要素において似たものがあると彼は考えた。

(1)侵入する文化によって激化する社会危機

(2)カリスマ的指導者

(3)黙示的なしるし

(4)恍惚的な行動

(5)重層信仰(シンクレティズム)の教義

 相互作用する二つの宗教観

 日本は神道仏教、もしくは両方の国であると考えるのが正しい雰囲気があるものの「日本を宗教的に特徴付けるのが目的なら、あまり明白な用言を使わないほうがいいと思う。これが日本宗教分析家になるための大事な試金石なのだ」と早急な決め付けを諌めている。しかしながら日本の宗教を解説する上で一定の記述は必要であることから、マクファーランドは日本人の宗教生活を支配している宗教観として「経験中心主義」と「対立物の調和」という二つの相互に関連する観念を用いて説明を試みる。

 経験中心主義とは、合理的な手法を余り信頼せず「真実を理解することには、合理的明晰よりも感情的暗黙のほうが良いと考える傾向」を日本人は持っていると彼は考え、「現象を現れるがままに受け取り、成文化しない」日本人の慣習に対して当てはめられた言葉である。また日本人の性質をソクラテスによる「吟味のない生活は生きるに価しない」という格言を用いて「生活されない生活は吟味するに価しない」と表現しており、日本人は「考えることよりも生きることの方を優先する傾向がある」と述べている。

 一方で対立物の調和とは、2つのものが存在するときに二元論的なステージに持ち込んで対立させる西洋の思想(真実/虚偽、善/悪、神/人)に対して、二つものを争わせず両者は相互に作用する関係論的な存在として扱うことである。真実は矛盾の除去ではなく「対立物の結合の意識」から生じるというのが、この考え方の底にある。これはオーウェルの小説に出てくる二重思考(ダブルシンク)のような論理の歪曲とは異なるとマクファーランドは言う。

神の概念

日本人が神として信仰する対象を分類することができる。

(1)肥沃や生育や多産性といった根本的な生命原理

(2)太陽と月に代表される天体

(3)風や雷などの自然力

(4)山や川などの目立った地形学的特徴

(5)木や岩を代表とする自然物体

(6)馬やキツネなどの動物

(7)死者の霊

新興宗教の役割

 本書では具体的な宗教団体について章を割いて述べているが、ここでは割愛し、結論部に書かれた新興宗教の役割について記す。新興宗教の役割として特に以下の3つが存在している。

(1)社会的に恵まれない人々のための気密室

(2)一般人のための表現メディア

(3)「使命シンボル」を求める探求機関

社会的に恵まれない人々のための気密室とは、急激な社会変化により生じた圧力は特に弱者に対して強い影響を及ぼすことから、彼らが社会的な圧力に耐え、慣れるまでの時間を確保するために宗教という砦に避難することができる。一般人のための表現メディアとは即ち、先ほど書いた社会抗議の手段として求められている役割である。芸術や、文学、科学、哲学といった高級な手法は上級階級や知識階級に独占されており、庶民の手法として宗教が注目された。これは日本や中国の歴史などを思い返してみると想像が容易い。そして3つめの使命シンボルを求める探求機関というのは、保守論壇でよく言及されがちな、敗戦により国家観や国家目標を喪失し日本人の精神が深刻な状態になっていることに対して、それを埋める手段として「使命シンボル」なるものを日本人は探していると彼は言う。神学者パウルティリッヒの「現在の日本は、使命シンボルを探求している」という記述を引き合いに出しながら、ナショナリズム愛国心への回帰ではなく、新しい国家観を構築する試みとして、ナショナリズムの代用品として新興宗教が使われようとしていると彼は述べている。実際、新興宗教の指導者は時折、天皇の代理人としての役割を果たすことがあり、固い団結や共同意識を提供している。また彼は今後の研究課題として、その使命シンボルが海外布教を積極的に行う一部の新興宗教団体の中で具体的にどのように機能しているかという疑問を提示している。

 マクファーランドは結論で新興宗教をこう表現している。「新興宗教は、現在と過去を再連結、つまりナショナリズムへ帰る橋を架けようと企てれば企てることが出来る。一方、現在と未来を結び付け、少なくとも偏在している国家主義的打算を越えた、新しく、信頼のおける生活への通ずる橋を架ける努力をすることも出来るのだ」「手近にある材料で作られた日本の新興宗教は、避難所、希望の根拠、新しい人生に導く橋といったものを、恵まれない、欲求不満に悩む何百万という人々に提供してきたし、現在も提供している」

 

他に気になった箇所を二つだけ引用しておく。

日本以上に、宗教が歴史的に目立つ存在にある国は、ごくわずかしかない。美術的財宝と華麗な祭礼を持つ寺院や神社は、依然として日本の大きな魅力となっている。しかし、逆説的にいって、国際的に見ても、現代の日本は、宗教的に無関心な国としても有名なのだ。

 

日本の謎のもう一つは、この国には、寛容という子羊と、宗派心という獅子とが、仲良く一緒に横たわっているような雰囲気が常に漂っている、ということである。